2011-11-08

「超「超」整理法」(野口悠紀雄 著)

前著「超整理法」の改訂版。前著では主に紙のドキュメントを如何に整理するか、という方法論であったのに対し、「超「超」整理法」ではデジタル化によるドキュメントの整理法を説いています。

この本が出版されたのは、2008年。1940年生まれの野口氏は68歳。この歳で最先端のGoogle製品などを使いこなし、その応用方法を発展させていくバイタリティーに敬服します。

無理せずに使いこなすコツは、本書中でもたびたび著者本人が言うように、マニアになり過ぎない事かもしれません。野口氏はあくまで、コンピュータのユーザであり、コンピュータの技術者ではない。

コンピュータを仕事の道具として使うユーザとして必要最低限のリテラシーさえあれば良く、込み入った問題が起きたときには詳しい人に任せれば良い。大学という場で若い学生が居るという条件にも恵まれているものの、そういった割り切りができるのは自分の本業に自覚的だからでしょうか。

本書では1993年に出版された「超整理法」をたびたび引用しながら、今ではもう通用しない、今ではよりよい方法がある、当時の予想は間違えていた、と修正を重ねています。使い込んできた方法論であっても、古くなったり間違っていたものはバッサリ切り捨て修正していく。「重要なのは個々の細かい方法論ではなく、その背後にある基本的な考え方だ(p.17)」という持論を実践しています。

今(2011年)読んでみると、すでに本書の中で紹介されている方法ですら古いものも。例えば、本書中で勧められているGoogleデスクトップ検索は、バージョンアップが停止され今後提供を中止するというアナウンスがありました。しかし、デスクトップ検索製品の代替品が無いわけでもなく、またデスクトップ検索をつかって「何をすべきか」、「何を実現するために」デスクトップ検索を使っていたか、というエッセンスが読み取れれば、個別の製品が使えなくなることは些末な問題です。

そういった時代の変化に流されたり、それによって疲弊しないためにも、より本質的な理解を深めて、道具は道具として愛着を持ちすぎない事も大事なのでしょう。

また、本書が前著「超整理法」と異なるのは、第Ⅲ部以降で、整理法そのものではなく、なぜ整理法が必要なのか、整理法を使った上で何をしなければいけないのか、という「目的」レベルの話が書かれている点です。

つまり、整理法がアナログからデジタルになり、より洗練されたことで見えてくるのは、それを使った知的生産、知的労働の必要性が高まっているということです。これはドラッカーの言う「知識労働者」と重なる。本書の第Ⅲ部自体、先日偶然読んだドラッカーの「ネクスト・ソサエティ 」と非常に多くの点で類似点を見いだせます。

非常に乱暴に要約すると、「先進国において単純労働は許されない」という時代になりつつあるのではないかと思います。単純労働は途上国の国民にも出来るからです。

第8章(p.277)にて、整理法など要らないという大蔵官僚が出てきます。その理由は、部下にやらせれば良いからだと言う。逆に言えば、今まで有能な部下を持てないと出来なかった幹部クラスの知的な仕事が、デジタルツールと整理術などによって、そこまで出世しなくとも出来るようになったということです。

若くとも有能な労働者は、まるで初老の幹部のような環境が望めば可能になったということは、条件を満たせる先進国の労働者にとって、ハードルが一段底上げされたことになります。環境が揃っていながら、そのような知的な生産性が発揮出来ないのであれば、先進国の労働者として用をなさないとみなされるからです。

好むと好まざるとにかかわらず環境がそのように変化していくのなら、出来ることは、変化を先取りして適応していくしか無い。技術寄りの本と思って読み始めると、存外 社会的な問題提起をしている事に面食らうかもしれません。

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