2011-11-18

時間軸でみるインフレとデフレ

貨幣というものが、物々交換しにくい者どうしを交換するための中間的な代替品と捉えると、もっとも身近にあって貨幣と置き換える必要のある資源は「労働力」だろうと思う。

インフレというのは貨幣の価値が低下して、物価が相対的に高くなる貨幣的な現象だ。

貨幣の価値が低下、つまり昔に比べて価値が毀損するという事は、貨幣に置き換えられていた昔の労働の価値が毀損したとも考えられる。

緩やかなインフレは好景気の代名詞の様に言われるが、これは緩やかに過去の労働結果が毀損していくといえる。

経済の発展が技術力に依存してる時代であれば、より未来の方がより過去よりも技術力が向上し、効率が上がるので、時間が経つほど労働の価値が上がる。

1時間で100単位しか作れなかった時代の労働は、1時間に10,000単位作れるようになった時代から見れば、1/100時間分の価値しかない。


では、逆にデフレになるとはどういう事か。

デフレとは貨幣の価値が上昇して、物価が相対的に安くなる貨幣的な現象だ。

上記に習うと、貨幣の価値が上昇するとは、過去の仕事の価値が上昇していると考えられる。

逆に言えば、現在行なっている仕事が、過去の仕事よりも効率が劣っているという事になる。

機械的な生産能力が低下しているとは考えにくい。同一量を作るならより高品質、同一品質ならより大量に作れるようになったはずなのに、効率が落ちるとはどういう事か。

より高い労働力でより低い効率になっているという事は、仕事自体が無駄であるという事になる。つまりやらなくて良い仕事、需要を無視した供給を行なっていることで、労働力が空回りしている。

生産性が10倍になった所で、95%が不要品として処分されてしまえば、有効とみなされる労働力は5%に過ぎず、結局労働のもたらす効果は半分になる。

これは供給力が需要を上回って初めて起こる現象なので、成長が技術力に依存していた時代には起こらなかったであろう問題だ。


現在の生産技術が過去に対して優位に有りながら、成長が望めない。これはまさに比較優位の問題と考えられる。

一般に比較優位の説明は二国間の生産性として語られるが、インフレ/デフレという一国内の時系列の現象を考える場合、未来の自国と過去の自国について比較優位を考慮する必要がある。

つまり、未来の自国とはあらゆる面において生産性の高い「絶対優位」にあるにもかかわらず、成長性において過去にかなわない。これは過去の自国と比較して、「比較劣位」のある仕事に労働力を注力してしまっているからだ。

インフレ/デフレというのは「結果的に」起こる貨幣現象であり、原因ではない。つまり、(結果的に)デフレが起きているのであれば、その「原因」は過去の自国と比べて、「比較劣位」のある仕事をしている事にある。

有り体に言えば、努力の方向性が間違っているといえる。つまりデフレが起きているならば、「何をすべきか」を問い直し、過去よりも比較優位にある仕事に注力すれば良い。


ただし、今の日本に起きているのが貨幣現象としての「デフレ」かは疑問が残る。あくまで過去との比較優位を考えるのは、「デフレ」が起きていた場合に限る。

2011-11-08

「超「超」整理法」(野口悠紀雄 著)

前著「超整理法」の改訂版。前著では主に紙のドキュメントを如何に整理するか、という方法論であったのに対し、「超「超」整理法」ではデジタル化によるドキュメントの整理法を説いています。

この本が出版されたのは、2008年。1940年生まれの野口氏は68歳。この歳で最先端のGoogle製品などを使いこなし、その応用方法を発展させていくバイタリティーに敬服します。

無理せずに使いこなすコツは、本書中でもたびたび著者本人が言うように、マニアになり過ぎない事かもしれません。野口氏はあくまで、コンピュータのユーザであり、コンピュータの技術者ではない。

コンピュータを仕事の道具として使うユーザとして必要最低限のリテラシーさえあれば良く、込み入った問題が起きたときには詳しい人に任せれば良い。大学という場で若い学生が居るという条件にも恵まれているものの、そういった割り切りができるのは自分の本業に自覚的だからでしょうか。

本書では1993年に出版された「超整理法」をたびたび引用しながら、今ではもう通用しない、今ではよりよい方法がある、当時の予想は間違えていた、と修正を重ねています。使い込んできた方法論であっても、古くなったり間違っていたものはバッサリ切り捨て修正していく。「重要なのは個々の細かい方法論ではなく、その背後にある基本的な考え方だ(p.17)」という持論を実践しています。

今(2011年)読んでみると、すでに本書の中で紹介されている方法ですら古いものも。例えば、本書中で勧められているGoogleデスクトップ検索は、バージョンアップが停止され今後提供を中止するというアナウンスがありました。しかし、デスクトップ検索製品の代替品が無いわけでもなく、またデスクトップ検索をつかって「何をすべきか」、「何を実現するために」デスクトップ検索を使っていたか、というエッセンスが読み取れれば、個別の製品が使えなくなることは些末な問題です。

そういった時代の変化に流されたり、それによって疲弊しないためにも、より本質的な理解を深めて、道具は道具として愛着を持ちすぎない事も大事なのでしょう。

また、本書が前著「超整理法」と異なるのは、第Ⅲ部以降で、整理法そのものではなく、なぜ整理法が必要なのか、整理法を使った上で何をしなければいけないのか、という「目的」レベルの話が書かれている点です。

つまり、整理法がアナログからデジタルになり、より洗練されたことで見えてくるのは、それを使った知的生産、知的労働の必要性が高まっているということです。これはドラッカーの言う「知識労働者」と重なる。本書の第Ⅲ部自体、先日偶然読んだドラッカーの「ネクスト・ソサエティ 」と非常に多くの点で類似点を見いだせます。

非常に乱暴に要約すると、「先進国において単純労働は許されない」という時代になりつつあるのではないかと思います。単純労働は途上国の国民にも出来るからです。

第8章(p.277)にて、整理法など要らないという大蔵官僚が出てきます。その理由は、部下にやらせれば良いからだと言う。逆に言えば、今まで有能な部下を持てないと出来なかった幹部クラスの知的な仕事が、デジタルツールと整理術などによって、そこまで出世しなくとも出来るようになったということです。

若くとも有能な労働者は、まるで初老の幹部のような環境が望めば可能になったということは、条件を満たせる先進国の労働者にとって、ハードルが一段底上げされたことになります。環境が揃っていながら、そのような知的な生産性が発揮出来ないのであれば、先進国の労働者として用をなさないとみなされるからです。

好むと好まざるとにかかわらず環境がそのように変化していくのなら、出来ることは、変化を先取りして適応していくしか無い。技術寄りの本と思って読み始めると、存外 社会的な問題提起をしている事に面食らうかもしれません。